『赤光』初版「屋上の石」① No.00013

あしびきの山のはざまをゆくみづのをりをり白くたぎちけるかも  『赤光』初版「屋上の石」

『赤光』初版「大正二年(七月迄)」「屋上の石」八首中の第一首。一連の末尾に「(七月作)」とある。

  「あしびきの」は「山」を導く枕詞である。上の句は、柿本人麻呂の「あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる」(万葉集巻七・一〇八八)を思わせる。この和歌について茂吉は、後年『万葉秀歌 上巻』で、

    この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべき優れた歌を成就したのである。

と評している。さらに続けて、

    なお、技術上から分析すると、上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て、下の句で「ユツキガタケニ」と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。

としている。この茂吉の用語「屈折」について、田中教子はやはり万葉集巻七・一〇八八と、茂吉の解説を例に挙げて説明している。

    自然の音から景色へ突然に飛んだように見えるが、これらは実際は連動した一体の美であり、歌われた世界は立体的に広がる。 茂吉は上下句が飛躍したように見える歌を、光の屈折の現象に喩え、そこに理屈では計れない詩歌の魅力の本質を見出しているのである。(『斎藤茂吉 ―声調に見る伝統と近代』作品社、二〇一九年)

   掲出歌に戻れば、人麿の一〇八八の歌同様、「上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て」いる。上の句で、「の」音はともに三音である。しかし、「自然の音から景色へ突然に飛」ぶという「屈折」は見られない。むしろ「屈折」させずに、「山の峡をゆくみづ」に集中して、終始視覚的に捉えている。

  結句の「けるかも」はやはり万葉集の用例に漏れず詠嘆で「白く湧き立ち、激しく流れることよ」という意味になる。

  万葉の歌を模して、万葉の歌に挑戦する姿勢を見せた歌とも取れよう。

https://twitter.com/takahashi_ry5?s=09

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