『赤光』初版「屋上の石」④ No.00016

2021-04-23

天そそる山のまほらにゆふよどむ光りのなかにいだきけるかも  『赤光』初版「屋上の石」

『赤光』初版「大正二年(七月迄)」「屋上の石」八首中の第四首。

  天そそるは、「天に高く聳える。そそり立つ。」という意味(『精選版 日本国語大辞典』)。『万葉集』〔巻一七・四〇〇三〕掾大伴宿祢池主じょうおほとものすくねいけぬしによる「つつしみて立山たちやませし一首」では「朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへあまあまそそり 高き立山たちやま」という用例があり、「天高くそそり立つ立山」という意味である(『万葉集(四)』岩波文庫)。

  まほらは、「すぐれたよい所。ひいでた国土。」という意味(同上)。『万葉集』〔巻五・八〇〇〕「まどへるこころかへさしめし歌一首」では「天雲あまくも向伏むかぶきはみ たにぐくの さ渡るきはみ 聞こし国のまほらぞ」という用例があり、「秀れた国」という意味である(『万葉集(二)』岩波文庫)。

  「天そそる山のまほらに」で、「天に高く聳えるすばらしい山で」という意味となる。

  「よどむ」には「(物事が)順調に進まない。停滞する。」という意味がある(『学研全訳古語辞典』)。

  「夕よどむ」は北原白秋『白南風』(昭和九)「月と水田」の「蛙(かはづ)鳴くくらき水田の夕澱ゆふをど電柱に添ひて月のぼる見ゆ」にも見られる。一連を含む章の詞書には「昭和六年初夏より同八年の冬に至る、砧村の生活に由る。」とある。

  「夕よどむ」で「日が長く夕方から夜になかなかならない」という意味となると推察される。掲出歌も白秋の歌も夏の歌である。

  似た言葉に「暮れなづむ」がある。「なづむ」には「行き悩む。停滞する。」という意味がある(『学研全訳古語辞典』)。「暮れなずむ」という複合動詞で調べると「日が暮れそうで、なかなか暮れないでいる。」という意味になる(『デジタル大辞泉』小学館)。

  また、季語に「遅日ちじつ」(傍題:遅き日、暮遅し、暮れかぬ、夕永し)がある。「春日遅々として暮れかねること。」である(『俳句歳時記  第四版増補  春』)。

  「夕よどむ」には以上のような語との親近性がある。掲出歌の大正二年以前の用例を見つけ、分析することが課題である。

  三句切れと捉えれば、上句は山がなかなか暮れない情景の描写となる。下句の「光り」は当然夕光となるが、「光りのなかに抱」くという表現が独立し際立ってくる。

  句切れなしと捉えれば、結句「抱きけるかも」についての二つの情景描写が先行した歌となる。「天そそる山のまほらに」と「夕よどむ光りのなかに」の並列関係(もしくは入れ子構造)となる。

  いずれにしても「抱く」という動詞のみで作品主体と相手が浮かび上がる。

  連作として見れば、相手は「しら玉の憂のをんな」であり、作品主体が「恋ひたずね」て来て(第二首)、「忍び逢」ったのである(第三首)。その逢瀬が具体的に掲出歌の時、場所で抱き合ったことだとわかる。「屋上の石」という題が関わってくるのは、次の第五首以降である。

https://twitter.com/takahashi_ry5?s=09

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