『赤光』初版「屋上の石」⑦ No.00019

屋根踏みて居ればかなしもすぐ下の店に卵を数へゐる見ゆ  『赤光』初版「屋上の石」

『赤光』初版「大正二年(七月迄)」「屋上の石」八首中の第七首。

  二句切れで、「かなしも」の「も」は上代語の終助詞で詠嘆の意味なので「かなしいなあ」という意味(『学研全訳古語辞典』)。しかし、「かなし」という形容詞にはいろいろな意味がある。「愛し」と漢字にすれば「いとしい」「心が引かれる」といった意味になる(『学研全訳古語辞典』)。「悲し・哀し」は、「切なく悲しい」「かわいそうだ」「くやしい」といった意味がある。「屋根踏みて居れば」から、または前出の歌から想像できる意味はなんだろうか。一人で屋根を踏んでいる状態を「切なく悲しい」と捉えたのか。「しら玉の憂のをんな」(第二首)を踏まえれば、「いとしい」とか「かわいそうだ」などと捉えられる。その逢瀬に悔いが残るものであれば「くやしい」となろう。逢瀬の情報量が少なすぎるので、「かなし」の意味は定められない。

  「かなし」の理由は第三句以降にもある可能性はある。「すぐ下の店」は何の店だろうか。作品主体は上に泊まっているのだろうか。店の人は民宿を経営しているのか。店で卵が売られているのだろうか。それとも誰かが卵を店に持ち寄ったのか。卵を数えたのは店の人か、店に来た人か。いろいろな可能性が考えられる。歌では、作品主体のすぐ下の店で誰かが卵を数えているのが見えるということしかわからない。その店の、ある時間の日常の光景かもしれない。しかし、作品主体にとっては、歌にしたくなる新鮮な光景だったのかもしれない。そこにいた人を見ることで心が動いたのか、そのやり取りを見て思ったところがあったのか。やはり「かなし」の意味は定められない。

  次の歌には「微けき憂湧きにけり」とある。とすれば、「かなし」は「悲し・哀し」の方の意味だろう。「切なく悲しい」と取るべきなのかもしれない。しかし、理由は次の一連最終の歌でも明確でない。悲しく思う「憂」はどこから来たのだろうか。「しら玉の憂のをんな」と関係があるのだろうか。次の歌の鑑賞でも考えてみたい。

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