『赤光』初版「屋上の石」⑧ No.00020

屋根にゐて微けき憂湧きにけり目したの街のなりはひの見ゆ  『赤光』初版「屋上の石」

「ゐる」という動詞には「座っている」、「じっとしている」、「とどまる」、「おさまる」などの意味がある(『学研全訳古語辞典』)。立っていたのか座っていたのかはわからないが、作品主体はじっとしていたのである。

  すると、「微けき憂」(かすかな憂愁)が湧いて来た。「かそけし(幽けし)」には「かすかだ。ほのかだ。」という意味があり、「程度・状況を表す語であるが、美的なものについて用いる。」という(同上)。

  「うれひ」は鎌倉時代あたりから使われ出したもので、それ以前には「うれへ(憂へ)」の形が多かったという(同上)。意味は「嘆き」、「嘆願」、「心配事」であるが、「しら玉の憂のをんな」も踏まえれば「嘆き」でよいだろう。その嘆きが美的なものであるとすれば、恋、逢瀬に関わるものであろうか。

  「目した」は、「目の下。眼下(がんか)。」の意味(『精選版 日本国語大辞典』)。「なりはひ」は、「農業」「生業(せいぎよう)」の意味(『学研全訳古語辞典』)で、広く「生業」つまり「生活するための仕事」(『精選版 日本国語大辞典』)と捉えたい。よって下句は、眼下の街の生業が、生業に励む人々の姿が見えたということである。

  「屋上の石」と題された一連だが、第五首の冷たい石というのは、作品主体に重なるのではないだろうか。作品主体には「かなし」い思いがあり、「微けき憂」が湧いている。第二首の「しら玉の憂のをんな」に関わる感情であろう。それとは関係なく、「尻尾動かす鳥」は去りゆき、「すぐ下の店」や「目したの街のなりはひ」では日常通りに時間が過ぎていく。恋に思い悩む作品主体と、その周囲の情景。その一情景に作品主体が自らの心情を重ね合わせたのだ。

https://twitter.com/takahashi_ry5?s=09

にほんブログ村 ポエムブログ 短歌へ
にほんブログ村