『赤光』初版「七月二十三日」① No.00021

2021-05-17

めんどりら砂あび居たれひつそりと剃刀研人かみそりとぎは過ぎ行きにけり  『赤光』初版「七月二十三日」

『赤光』初版「大正二年(七月迄)」「七月二十三日」五首中の第一首。

  「めん鷄ら」であるから雌の鶏が複数いる。鶏は「砂あび」を好むという(生田智美「ニワトリ流の衛生管理!砂浴びとは?」)。「お天気の良い日などに陽だまりとなった柔らかな砂場や、乾いたきれいな土を選んで、砂を足で掻いて地表を掘り柔らかくします。掘った土の中に寝転んだり、ひっくり返ったりしながら、羽をバサバサ、足をジタバタさせ」るという(同上)。その理由は、「寄生虫退治」「羽の汚れを落とす」という衛生・体調管理のためだという(同上)。また、「体を綺麗にするだけではなく、心もリフレッシュされ、ストレスの解消につなが」るという(「砂浴びの必要性」)。「砂浴びをするとき、鶏達はとてもうっとりした表情をし、目を細めます。ぐるぐると気持ちが良い時に出す声を出」(同上)すというので、この歌の情景では「めん鷄」の鳴き声も聞こえて来るのだ。

  水浴びをする鳥を見たことがある人もいるだろうが、「キジ目に分類される鶏は、もともと水が少ない草原などに住むため砂浴び」しかしないらしい(生田智美「ニワトリ流の衛生管理!砂浴びとは?」)。

  「めん鷄ら」はどんな場所にいるだろうか。「ほとんどの卵用の鶏を、日本人は砂浴びができないケージに閉じ込めて飼育してい」るという(「砂浴びの必要性」)。すると砂浴びをしないまま育つことになるので、(ケージから)「救出後一週間ほど」経たないと砂浴びをしないめん鷄もいたという(同上)。そのため、掲出歌の「めん鷄ら」は放し飼いか、それに近い環境で暮らしていたことが窺える。

  「居たれ」は「屋上の石」③の歌同様、已然形終止の余情を出す用法である。そのため、二句切れとなっている。

  「ひつそりと」「過ぎ行きにけり」の主体は、「剃刀研人」。剃刀研かみそりとぎとは、「かみそりをとぐこと。また、それを業とする人。」(『精選版 日本国語大辞典』)。掲出歌は、『精選版 日本国語大辞典』の「剃刀研」の項の用例となっている。掲出歌で登場するのは、剃刀研ぎの道具を持った人ということだろうか。はたまた、剃刀研ぎを生業とする人がその道具も持たずにいるのだろうか。

  「ひつそりと」というオノマトペは、現代語「ひっそり」で二つの意味がある。「(多く「と」を伴って用いる) 物音一つせず、さびしく静まりかえっているさま」という意味と、「人に知られないようにひそかに身を置いたり、ひそかに事を行なったりするさまを表わす語。また、人の沈み込んだ感じをも表わす。」という意味とがある(『精選版 日本国語大辞典』)。聴覚的に、無音であるという「ひっそりと」であれば、砂浴びの音、砂浴びしてリラックスした「めん鷄ら」の鳴き声と対照関係となる。後者の意味であれば、「剃刀研人」は「めん鷄ら」の邪魔をしないようにしているのだろうか。生業がうまくいっておらず、下を向いているのだろうか。

  一連は夏の一情景として提示され、次の歌に引きづられていくことはない。「めん鷄ら」、「剃刀研人」を点景にして、一連が始まる。

https://twitter.com/takahashi_ry5?s=09

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