『赤光』初版「悲報来」⑥ No.00007

2021-04-17

死にせれば人は居ぬかなと歎かひて眠り薬をのみて寝んとす 『赤光』「悲報来」

『赤光』初版「大正二年(七月迄)」「悲報来」十首中の第六首。

死ねば人という存在はなくなるという自明のことを思い、嘆く作品主体。「死にせれば」はサ行変格活用動詞「死にす」未然形+完了の助動詞「り」已然形+順接確定条件の助詞「ば」である。「死にす」は万葉集にも例がある語で「死ぬ」と同じ。

   「眠り薬」すなわち催眠薬は、19、20世紀で多くできたが、1903年にバルビツール酸系薬剤(商標名ベロナール)が登場した。ちなみに、芥川龍之介(1892~1927)が自殺に用いたのは、精神科医・茂吉が処方したベロナールであったという。芥川の小説「歯車」でも、主人公について以下のように書かれている。

「またあしたでも、……きょうは青山まで出かけるのだから。」「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」「やっぱり薬ばかり嚥んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナァル、ノイロナァル、トリオナァル、ヌマァル……」〔……〕とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。〔……〕僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、〇・八グラムのヴェロナァルを嚥み、とにかくぐっすりと眠ることにした。

戦時中、茂吉は掲出歌についての解説で「催眠薬は後年一種の流行になり、保健上害毒を流したが、その時分には専門家が用意して持って歩く程度のものであった」(『作歌四十年』)と述べている。種類は不明だが赤彦宅で催眠薬を飲んで床に着く。師・伊藤左千夫の死を受けて、幾分精神的な落ち込みないしは昂ぶりがあったことだろう。

   前回までの前半五首は、ひた走る作品主体であったが、第六首ではどこかに落ち着いていることがわかる。次回の第七首や後付の詞書でそこが信濃高木の島木赤彦宅であることがわかる。詞書に「信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壺に浸つてゐた」とあるが上諏訪布半旅館にいたという。そこから下諏訪高木の島木赤彦宅(後に柿蔭山房と言われる)までは、諏訪湖岸を北上すること2キロメートルほどであるから、徒歩であれば30分ほどかかるだろう。その距離を実際に走ったとすれば、相当疲弊したに違いない。