『赤光』初版「悲報来」① No.00002

2021-04-17

ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし 
『赤光』「悲報来」

『赤光』初版は「大正二年(七月迄)」から始まる。続いて「明治四十五年 大正元年」となるから、逆年順に歌が並んでいるのが特徴である。歌集の常識・慣習からは外れていて、茂吉の若さゆえの独創とも取れる。

  掲出歌は、『赤光』初版の第一首にして、「悲報来」十首中の第一首である。十首目の後には、後付の詞書として次のようにある。

  「七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壷に浸つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。」

 深夜十二時を過ぎていたのだから、外は暗闇。旧暦六月二十七日であるから、月齢25.89日で、半月から新月に移行する期間でむしろ新月寄りだ。長野県諏訪のその日の月出は0:42だったようだから、月明かりはほぼないと言ってよい。

ちなみに「赤光」初版跋で「大正二年度が終ったばかりの時に、突如として先生に死なれて仕舞った」という表現が出てくるのは、大正元年が七月三十日から始まったためである。また、茂吉が学生だった頃、東京帝国大学は九月入学だった。しかし、もし言えるとしたら「大正元年度が終ったばかり」だったろうが。

その夜実際に外は暗かったわけだが、「わが道暗し」「わが道くらし」の反復からは、歌の師・伊藤左千夫の死を知った茂吉の心の暗さも読み取れる。次回触れる第二首結句も「わが道くらし」であるところに、悲報に「堪へかね」ている暗澹たる心情の計り知れなさが表れている。「ひた走るわが道暗し」「堪へかねたるわが道くらし」は8音(モーラ)連続共通である。この韻律を味わうためにも、二句切れで声に出して読んでもらいたい。

「しんしんと」は夜の情景や雪の情景などで茂吉が使うオノマトペであるが、あえて漢字をあてれば「沈沈」などとなる。「ひた走る」という俗っぽい表現からは茂吉が報を聞いてすぐさま外に出て、ひたすら道を急ぐ様子が目に浮かぶ。