『赤光』初版「悲報来」詞書 No.00012

詞書

七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壺に浸つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。

『赤光』初版「大正二年(七月迄)」「悲報来」の後の詞書。

  茂吉は、高等学校三年、数え二四歳で正岡子規『竹の里歌』に出会い、のちに子規門の伊藤左千夫に師事する。

  左千夫は森鷗外主催の観潮楼歌会に一四回出席した記録がある(貞光威「伊藤左千夫と観潮楼歌会  ―石川啄木との関係を中心に―」)。この歌会は、明治四〇年三月三〇日から明治四三年四月一六日まで二六回主催されたことが確認されている。初回は鷗外、左千夫、与謝野鉄幹、佐佐木信綱の四名で開催した。左千夫はアララギ派、鉄幹は明星派、信綱は竹柏会と、超結社の歌会であった。四〇年五月四日の歌会は「石」の題で、左千夫は自分の歌と合わせて、茂吉の蔵王の「石」を詠んだ歌を持ち込んだと思われるという(藤岡武雄「現代短歌の源流を求めて」『短歌研究』二〇一六年二月号)。四二年にようやく茂吉が出席する。一月九日、二月六日、四月五日の三回が茂吉出席した会として記録に残っているという。

ちなみに『赤光』初版「巻末に」でも名前が上がり、歌集の挿絵(「蜜柑の収穫」「仏頭」)を提供した木下杢太郎は、明治四一年十月三日に初めて観潮楼歌会に参加し、翌年九月までに計六回参加していたという(丸井重孝「木下杢太郎に見る詩風の変遷〜「緑金暮春調」を中心として〜」『歌壇』平成二八年六月号)。ちなみに杢太郎は、北原白秋、石川啄木と同じ明星派であった。茂吉の初出席の四二年一月九日にも出席していた。

  同様に『赤光』挿絵「通草のはな」を提供した平福百穂は、茂吉の二度目の回(四二年二月六日)に出席した。記録のある中で唯一、左千夫、茂吉、杢太郎、百穂が同時に出席した回である。

この回は初回メンバーの四人の他、古泉千樫、北原白秋なども出席していた。

  その後、考えの違いから、茂吉は左千夫と距離を置くようになる。「明治四十四年〔……〕このあたりから歌風もいくらか変り、左千夫先生が賛成せられぬので先生と議論したりした時である。 兎に角従来の根岸派同人の作以外に一歩出ようなどという気持を示した」と後年茂吉は『作歌四十年』に記している。

  『赤光』初版「巻末に」でも、「特に近ごろの予の作が先生からめられるやうな事はほとんど無かつたゆゑに、大正二年二月以降の作は雑誌に発表せずに此歌集に収めてから是非先生の批評をあふがうと思つて居た。」としている。

  出会ってから八年経った大正二年に師の悲報を受ける。「七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壺に浸つてゐた時」である。

  そして、 「高木なる島木赤彦宅へ走る」のである。島木赤彦は、明治三六年発刊の根岸短歌会機関雑誌「馬酔木」にしばしば短歌歌論等を発表していた。左千夫、平福百穂等を諏訪に迎えたこともあった。

茂吉は三九年の始めに左千夫に書を送り、訪問し、「馬酔木」に短歌を発表するようになった。四一年に左千夫を中心にして雑誌「アララギ」が発刊された。茂吉、赤彦、百穂等は、「アララギ」の編集経営に尽力した。

  「夜は十二時を過ぎてゐた」が茂吉は「赤彦を起して早口に事情を話し」たという(『作歌四十年』)。赤彦は「何せ致しかたない、今夜はここで寝たまえ」と言った。

  茂吉数え三二歳、赤彦数え三八歳の時であった。左千夫は数え五〇歳、脳溢血で亡くなった。

https://twitter.com/takahashi_ry5?s=09

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